吉川純一先生を偲んで
第9代理事長(2010.9 - 2013.9)
鄭 忠和
吉川先生の突然の訃報に大変なショックを受け、気が抜けてしばらく呆然としておりました。先生のご逝去が信じられず、信じたくもありませでした。いつもの元気な大きな声で、「鄭ちゃん、すまん、すまん、みんなに心配かけてすまん」という先生の声が耳に響き、七福神の布袋様に似た柔和な先生の笑顔が脳裏に浮かんで離れませんでした。先生の75歳の人生は短すぎました。せめて80の声は聴きたかったと残念でたまりません。先生を尊敬している全国の多くの心臓専門医の方々も嘆き・悲しんでおられます。通夜・告別式に参列した多くの方々、突然の訃報に駆けつけられずに届けられた弔花・弔電の多さにもびっくりしました。先生がいかに多くの方々から尊敬され慕われていたかしみじみと感じ入りました。先生と親交のあった海外の先生達に訃報を知らせますと、深い悲しみと心からの哀悼の意が届きました。心エコー学の領域で国際的なリーダーであった先生のご逝去は、まさに“巨人逝く”の悲しいニュースでした。 先生は臨床医として、教育者として、研究者として偉大な足跡を残されました。包容力のある先生の優しくかつ厳格な指導を受けた多くの臨床医達は、全国の大学病院や第一線の臨床病院で大活躍しています。先生の長年にわたる教育・啓発活動の賜は、後輩たちにしっかりと引き継がれています。
先生と日本心臓病学会との関わりを思い出しますと、先生の学会に対する貢献は筆舌できないほど甚大でした。本学会の創設者の坂本二哉先生の薫陶を受けられた後、一貫して坂本先生をサポートしながら学会の発展に尽力されました。 1970年学会の前身の臨床心音図研究会の設立と同時に入会され、1982年研究会が臨床心臓図学会に移行時に幹事に就任し、Journal of Cardiologyの副編集長を務められました。 1989年理事に就任、1995年~1998年までは理事長として学会の発展に尽力されました。1994年~1998年までは坂本先生とJC編集長の2人体制でJCの充実に奔走され、1999年~2005年までJC 編集長を努められました。学会に並々ならぬ貢献を果たされ、2005年に日本心臓病学会栄誉賞を授与されました。
光陰矢の如し、先生に出会ってからあっという間の40年でした。坂本研究室に国内留学していた私を、新神戸駅前にあった旧神戸中央市民病院に呼んでくれた時のことをなつかしく思い出します。余り広くない心エコー図の検査室・研究室で、エネルギッシュに心エコー図に取り組んでいた先生は輝いておられました。先生が35歳、私が30歳の時でした。先生とのご縁は格別で、坂本門下生の中で吉川先生は兄貴以上の特別の存在でした。私に何か困ったことが生じると、いつも「まあ気にせんと、鄭ちゃんなら大丈夫やで」と励ましてくれた声が今も聞こえてくるようです。先生とご一緒した数々の国内学会や国際学会での思い出が走馬灯のように目に浮かびます。夫婦ともに親しくさせていただけたことも有難いことでした。独特の大きな声で笑いながら話される先生の周りはいつも楽しい雰囲気に包まれておりました。吉川先生を失った今、改めてその偉大さを知り、もう少しご一緒したかったと残念でなりません。早すぎた75歳ではありますが、成し遂げられた業績は計り知れません。お仕事もまた何よりご家庭にも恵まれた悔いの無い素晴らしい人生であったと思います。 先生どうぞ安らかにお眠り下さい。